2011.3.11
2011年3月11日午後2時46分。この日時は今でも一瞬で思い出すことができます。当時私は福島県に住む高校生。高校の入試準備期間で在校生はお休みの日でした。私は友人たちとカラオケで楽しいひと時を過ごしていました。突然のケータイ電話の不快で恐怖を焼きつかられたサイレン。ケータイが壊れたのだろうか、あの瞬間はただそう思っていました。サイレンからほんの数秒後、大地が揺れ始めました。ああ、地震だったのか、すぐおさまるだろう、そう思いながら友人が歌っている姿がいまだに鮮明に思い出されます。あっという間に異常なほどの揺れに、これはまずいと部屋のドアを開け、すぐに外に飛び出しました。その瞬間、自力では立っていられないほどの揺れで、文字通り地面にひれ伏すような形で、ただただ揺れが収まることを祈ることしかできませんでした。どんどん揺れが大きくなり、隣の建物の窓ガラスが割れ、地面に落ちていきました。ほぼ同時くらいに、突然の猛吹雪に見舞われ、とにかくただ事ではないことだけを察知しました。すぐさま解散し、各々帰路につきました。私は自転車で40分ほど離れた実家まで、安全第一でとにかくはやく戻らなければと必死でした。いつも知っている風景が、地面はひびが入っていたり、めくれあがっていたり、なぜか水が浮いてきているところ(当時は液状化現象と呼ばれるものの存在自体がマイナーでした)を目の当たりにしながら、恥ずかしながら半べそ交じりに必死に家に戻ったことを覚えています。幸いにも実家は特に問題なく、家財道具も父が震災に備え対策をしていたため、ほぼ無傷でした。仕事に出ていた父や、出かけようとしていた母、姉の姿を確認し、とにかく安心したことを思い出します。ひどい揺れだったね、大丈夫だった?そんな会話をして、ただただ無事であったことを喜び、こんなこともあるんだね、とただそれだけで済むことだと、その時は本当にそう思っていました。
福島第一原発事故
まさか原発が大変なことになっているとは、全く想像もしていませんでした。少しづつテレビで明らかになっていった各地の状況。とにかく印象に凝っているのは、津波の映像です。みたこともない引き潮、あっという間に街を飲み込んでいく大津波。幸いにも私が住んでいたところは海が近い場所ではなかったため、そういった被害はありませんでした。しかし、大きな家や車が、波に攫われていくあの光景はただただ恐怖でしかありませんでした。そして、何よりも衝撃だったのが、原発が爆発した映像でした。瞬間的に「あ、終わったかも…」と高校生の頭ながら思ったことを覚えています。そこで本当にとんでもないことが起きてしまったんだなと確実に認識しました。
被災生活
入試準備期間でお休み中でした。当然、なにもかものインフラが混乱してしまい、当分の間休校が言い渡されました。父の仕事も、職場の棟が半壊し、当面の間は自宅待機となり、家族会議が行われました。とにかく物資を集めよう、おそらく物流もマヒし、お店が今現在抱えている在庫がなくなれば、しばらくはかなり厳しい生活を強いられることになる。車が必需品な地域であったため、ガソリンも可能な限り節約していかなければならないということがまとまりました。少し休憩しようか、となにか暖かいものでも飲もうと思い蛇口をひねると、どんどん水が止まっていくような程度しか出ないことに気づきました。すぐに浴槽に目いっぱいの水を汲み、鍋やバケツなど、水を汲めるものにとにかく組んでいきました。まあ、一時的なものだろうと思っていました。
断水
やはり事態は悪くなり、町内の浄水場のシステムが故障しました。水をくみ上げる機械が壊れ、断水しました。毎日給水車に水を汲みに行くことがしばらくの日課となりました。結果として断水は約2か月続きました。もちろんお風呂には入れません。食器も洗えない、トイレも流すのは大をしたときのみ。水のありがたみを何よりも感じた2か月間でした。食器は最低限の洗浄で済むよう、ラップをまいたり、多少備蓄してあった使い捨ての食器を使っていました。なによりも大変だったのはトイレとお風呂に入れないことでした。
物資不足
やはり父の予想は的中し、あっという間にお店に並んでいるものはなくなりました。物流も止まり、ほぼ陸の孤島と化したような状況でした。後からわかったことですが、原発が爆発したことで、被ばくを恐れた関東圏の物流会社が、途中で引き返し、福島に入らないように制限をしていた時期があったそうです。間違った知識、このときに有名になった言葉、「風評被害」が顕著に出た結果でした。某有名コンビニエンスストアにも全く物が届かないことが続きました。幸いにも父が災害に備えて様々な準備を少しづつしていたため、食料にはしばらく困ることはありませんでした。やはり、なによりも「水」の重要さを嫌というほど、恐怖になるほどに体感しました。
情報不足
当時まだ今ほどにSNSは発達していなかった時代です。Twitterが出始めた、くらいのことだったような気がします。それでも、SNSにはかなり助けられました。どこのお店は営業再開している、そこの温泉は無料で開放している、どこのガソリンスタンドは空いている、そこは道がふさがっている、などテレビで報道されること以外の、身近な情報を集めるには本当に重宝されたものでした。
教訓
何事にも備えが肝心だと強く感じました。家財道具が無事だったのは、大きなものには倒れないように突っ張り棒のようなもので固定していたおかげです。食器関係もほぼ無傷でした。滑り止めのシートをしいていたこと、扉にロックをつけていたこと、耐震マットをしいていたことが挙げられます。食料も今でこそ「ローリングストック」という方法が紹介されることが増えましたが、当時から父は実践していました。「最悪の場合を想定しインフラが復旧するまで1週間、その間の食料、水の備蓄」を目安に準備を重ねていたそうです。とはいえ、実家も大きな家ではないため、4人分の1週間分の食料や水をストックしておくには限界がありました。ローリングストックをしながら、物資を厳選していたのだなと今では思います。ご近所との繋がりもかなり助かりました。情報の共有や、物資を共有すること、なによりも同じ境遇の人が周りにたくさんいることは大きな心の支えになっていました。
忘れてはいけない
3.11から今年で13年。「もう」なのか「まだ」なのか。それは当時からずっと感じている言い回しです。テレビのリポーターが各々、「もう」、「まだ」と発するたびになにか引っ掛かりを覚える日々です。どちらが正しいとか、そういうことではないのだと思います。「もう」と思う時もあれば「まだ」と思う時ももちろんあります。少なくとも、当時高校生であった私が、30代を迎え、いまだに当時の様子をこんなにも鮮明に記憶していることが、時間を全く感じさせていないほどに衝撃的な出来事であったことは間違いありません。毎年この時期になれば、報道特集が組まれます。各地の様子を見ると復興はまだまだ長い道のりであると思います。原発の処理水や、廃炉に向けたデブリの取り出し。全く終息のめどが立っていません。今でこそ、当時のような風評被害は感じられませんが、私は県外の大学に進学し、一人暮らしを始めることになっていました。「福島県民」というだけで差別のようなことが平気で起こっていたあの時代。福島県民はみな防護服をきて生活していると言われた時代。同じく被災した隣県に進学しましたが、本当に周りに受け容れてもらうことができるのか、何よりも心配で、不安でした。しかし、全くその思いは杞憂に終わり、本当にかけがえのない仲間たちと最高の時間を過ごすことができました。大学時代には被災地に出向き、ボランティア活動に時間を費やしていました。その場所で会う人達の想いは今でも忘れません。「もう13年」、「まだ13年」。決して忘れてはいけない出来事です。私の当時の想いや体験が誰かの救いとなれば幸いです。
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